人類の歴史を変えた3つの力をプラウト主義で読み解く
国家の起源と農業の誕生

― 土を耕すことから始まった人類社会のかたち ―
私たちが日常的に受け入れている「国家」という仕組みは、いったいどこから始まったのでしょうか。そのルーツをたどっていくと、必ず「農業」の誕生に行き着きます。
人類は長い間、狩猟採集を基本とした暮らしを営んできました。日々移動しながら自然の恵みをそのまま受け取り、必要な分だけを手に入れて暮らしていました。道具は石や骨を使い、住まいも簡易的なもので、土地に根を張る意識はほとんどなかったと考えられています。人類の歴史の99%以上がこの狩猟採集時代に該当し、そこには国家も私有財産も、さらには戦争すらなかったという説もあります。
しかし約1万年前、人類は大きな転換期を迎えます。メソポタミアやナイル川、インダス川、黄河流域などの肥沃な地で、農業が始まったのです。野生の穀物を意図的に育て、動物を飼いならすことで、人間は自ら食料を生み出す術を得ました。これにより人々は、定住するようになります。
定住するということは、住居を構え、畑や水路を整備し、同じ場所で長期間にわたって生活することを意味します。この過程で、集団生活が本格化し、自然と人々の間に役割分担が生まれました。ある者は農作業を担当し、ある者は水を管理し、別の者は道具を作るというように、分業が進んでいきました。このような分業を調整・管理する役割として、リーダーや指導者が必要とされるようになったのです。
農業はまた、「余剰」を生み出すようになりました。狩猟採集ではその日暮らしが基本でしたが、農業によって得られた作物は保存することができ、蓄積が可能になりました。この「蓄積」は人類にとって画期的な概念であり、交易や備蓄、分配などの新たな行動を生み出しました。そして、蓄積された作物を管理する権限が、「権力」の原型となっていきます。
収穫物の蓄積が進むにつれて、「誰が持っているのか」「誰が管理するのか」という問いが生まれ、「私有財産」という意識が芽生えます。さらに、豊かな者とそうでない者の間に格差が生まれ、社会の階層化が進みました。こうした格差や蓄積を制度的に管理・固定化するために、国家という仕組みが生まれていったのです。
農業は土地と密接に結びついています。土地は動かすことのできない資源であり、「この土地は誰のものか」という所有の意識が争いを生み出しました。こうした争いを調停する存在として共同体の長が立ち、やがて王や支配者へと変化していきます。そしてそれが国家の原型となっていったのです。
たとえば古代メソポタミアでは、王が農地や水利を管理し、神官たちが灌漑設備を統制することで農民を支配しました。古代中国でも農業の発展と共に王朝が形成され、「天子」が大地と民を統治する仕組みが生まれました。こうして、農業が人々を結びつけ、統治を必要とし、統治が制度化されることで国家が誕生したのです。
つまり国家は、農業という人間の営みの中から自然に生まれた社会のシステムでした。それは単なる政治の枠組みではなく、食料を安定的に生産し、分配し、共同体を存続させるための土台だったのです。その意味では、国家の最も原初的な使命とは「農民の生活を守ること」であったとも言えるでしょう。
しかし、時代が進むにつれ、国家は農民を守る存在から、逆に搾取する存在へと変質していきます。それは、権力が自己保存と拡張のために暴走しはじめた結果でした。この話は次章で詳しく見ていくことにいたしましょう。
私たちが現代に生きる今こそ、「国家とは何のために存在するのか」「農業とは単なる食料生産なのか」という根源的な問いを改めて見つめ直す必要があるのではないでしょうか。国家と農業の深い関係性は、これからの社会を築くうえで大切なヒントを与えてくれるはずです。
農業と戦争の始まり

― 土を奪い、守るために剣が抜かれた ―
農業は人類に定住と安定をもたらしました。しかし同時に、「土地」に縛られるという新たな現実も生まれました。そしてこの土地こそが、生きるための資源そのものであり、それを巡る争いが、やがて人類に戦争という行為をもたらすことになったのです。
土地と水を巡る争いの始まり
狩猟採集時代の人々は、食料が尽きたり争いが起きたりしても、新たな場所へ移動することで問題を回避できました。しかし、農耕民はそうはいきません。畑を耕し、水路を整備し、家を建てた土地は、その人々の生活そのものであり、移動することが困難になったのです。そのため、土地を奪われることは、すなわち生きる権利を奪われることと同義になりました。
実際、歴史上最も古い戦争の記録も、農業と深く結びついています。たとえばメソポタミア文明では、チグリス・ユーフラテス川の水を巡って都市国家間の争いが繰り返されました。紀元前2500年頃、シュメール時代の都市ラガシュとウマが戦った理由も、水路の支配権を巡るものであったと伝えられています。
水は農業の命であり、その水を誰がどれだけ引けるかという「権利」が、国家間・共同体間の深刻な対立を生んだのです。農業社会においては、目に見える土地だけでなく、水のような共有資源までもが戦争の対象になっていきました。
農業が軍事制度を育てた
農業の発展は、軍事制度の発展とも密接に関わっていました。定住生活が進むにつれて、食料を備蓄する倉庫や倉が整備され、そこを守るための武力が必要とされました。また、凶作や外敵に備えて、余分に作物を生産し、それを管理する力も求められました。こうして「防衛のための武装」は、次第に「攻撃のための武力」へと変質していったのです。
戦争は制度化され、常備軍の組織や兵器の製造が国家の重要な機能となりました。農民たちは農閑期には兵士として徴用され、農業と戦争は労働の二面性を持つようになっていきました。
例えば古代エジプトでは、ナイル川の氾濫期には農作業ができなくなるため、その時期に軍事訓練や建設労働を行っていました。中国でも屯田制など、農閑期に兵士を徴兵し、農繁期には帰還させるというシステムが用いられていました。このようにして、農業が国家の基盤であると同時に、軍事の基盤でもあったのです。
農業資源の収奪と拡張戦争
やがて戦争は、防衛のためだけでなく、農業資源を奪うための手段となっていきました。国家は他国の豊かな土地、豊富な労働力を求めて、侵略戦争を仕掛けるようになります。
古代ローマでは、征服した土地を退役兵や貴族に分配し、植民地経営を進めていきました。これは領土拡張であると同時に、農業資源の戦略的確保でもあったのです。中国でも王朝が拡大するごとに周辺民族を討伐し、その土地を耕地として組み込んでいきました。中世ヨーロッパの十字軍も、表向きは宗教的な大義を掲げながらも、東方の肥沃な土地と交易ルートの支配を目的としていました。
このように、農業のための戦争が繰り返され、それによって国家は富を蓄積し、さらに強大な軍備を整えるという循環が生まれていったのです。
戦争による農業の破壊と再建
しかし、戦争は農業に深刻なダメージを与えるものでした。戦場となった土地は踏み荒らされ、作物は焼き払われ、灌漑施設は壊されてしまいます。多くの農民が命を落とし、残された人々も農作業を再開するまでに長い時間が必要でした。
そのため、戦争が終結した後には、必ずと言ってよいほど「農業の再建」が国家の最重要課題となりました。勝者であっても敗者であっても、農業が復興しなければ、国家は再び立ち上がることができなかったのです。敗戦国に対しても農業支援を行い、秩序を取り戻す動きは、古代から現代に至るまで繰り返されています。
このように、農業は国家を育て、国家は農業を守り、やがて農業を巡る争いが戦争を生み出しました。そして戦争は農業を破壊し、またそれを再建しながら、国家の形を変えてきたのです。
つまり、農業とは単なる「食料生産」ではなく、人類の歴史と国家形成、そして戦争の全てに関わる「根源的な営み」であると言えます。
帝国と農業 ― 統治と搾取の関係

― 民の食を支える力が、支配の道具となるとき ―
農業は国家の成立を促し、定住と統治の基盤を築いてきました。しかし、国家がより巨大化し、「帝国」へと発展していく中で、農業の役割は大きく変化していきます。それは「民を養う力」から、「支配と搾取のための手段」へと変質していったのです。
帝国とは、単に大きな国家というだけではありません。多様な民族や言語、宗教、文化を抱えながら、それらを統一し、維持する強力な権力構造をもつ政治体制です。こうした広大な領域を統治するためには、安定した農業生産と、それに基づく徴税制度が不可欠でした。
古代ローマ帝国と農業徴税制度
古代ローマ帝国では、農業による徴税制度が支配の根幹をなしていました。ローマ市民の中には、農業を神聖な務めとして尊ぶ風潮もありましたが、現実には支配下の農民たちは過酷な税や軍役に苦しめられていました。
ローマは属州(プロウィンキア)から収穫物の一定割合を税として徴収し、それを本国に送る制度を整備していました。帝国内には穀倉地帯が整備され、戦地の兵士たちにパンやワインなどの食糧を供給するため、広範な農業インフラと輸送網が築かれていたのです。
さらに、退役した兵士たちには征服地の農地が与えられ、そこに定住させることで、辺境地帯の安定化と農地開拓を同時に進めました。農業は、ローマにとって「血液」であり、「胃袋」であり、「財布」だったのです。
中国の王朝における農業支配の精緻さ
中国の歴代王朝もまた、農業を国家統治の柱として位置づけてきました。漢から唐、宋にかけて、「均田制」や「租庸調制」といった農地・人口管理制度が発展し、農民からの確実な徴税と労役徴発が可能となっていました。
戸籍制度は「誰がどこに住み、どのくらいの土地を耕し、どれだけ税を納めるか」を記録するものであり、農民一人ひとりが国家経済の歯車として徹底的に管理されていました。農本主義という理念のもと、商業よりも農業が奨励されていたのも、農民が国家の財政と軍事を支える根幹に位置づけられていたからです。
中国では「天下の土地はすべて皇帝のもの」とされ、農民はあくまで「貸し与えられた土地」を耕す存在と見なされていました。反乱が起きる際には、まず狙われるのが「穀倉」や「徴税所」であり、それが農業の重要性を端的に示しています。
統治者にとっての農業とは何か
帝国の支配者にとって、農業は単なる食糧供給手段ではありませんでした。それは「人々を従わせる力」でもあったのです。民が飢えれば反乱が起こる。だからこそ、最低限の食料は保証しつつも、完全に自立はさせない。その絶妙なバランスの中で、支配体制は維持されていました。
農民は「支配される存在」であると同時に、「支配を支える存在」でもありました。帝国が崩壊するとき、まず疲弊するのは農民層であり、次に武士や貴族、最後に王朝が滅びます。つまり農業こそが国家の土台であり、同時にそのアキレス腱でもあったのです。
土地制度による農民の拘束
農業をめぐる支配の最たる形が、「土地制度」による農民の拘束でした。封建制度下では、土地は領主の所有物であり、農民はそれを耕す従属的な立場に置かれました。中世ヨーロッパの農奴制、日本の荘園制度なども、農民が土地と共に扱われる制度でした。
国家や領主が土地を管理し、その上で生きる農民から税と労働力を徴収する。この仕組みは帝国を安定的に維持するうえで有効でしたが、同時に農民の自由を奪い、人間としての尊厳を脅かすものでもありました。
多くの農民は、作物を作りながらも自らは飢えるという矛盾の中で暮らしていました。これはまさに、農業が「生命の営み」から「収奪の装置」へと変わっていった証左といえるでしょう。
帝国は農業によって繁栄し、農民によって支えられていましたが、その実態は搾取と抑圧の歴史でもありました。もともと自然とともに営まれるはずの農業が、いつの間にか国家の統治装置となり、人々を縛る鎖となっていたのです。
封建社会・近代国家と農民の役割

― 土に縛られながら、時代を動かした者たち ―
帝国が崩壊すると、中央集権的な支配体制を維持することが難しくなり、より地域に根ざした「封建社会」が形成されました。この社会では、土地を基盤とした支配関係が分散化され、各地の領主が権力を握るようになります。そして、その封建社会を根底から支えていたのが、農民の存在でした。
農民は支配される立場でありながら、実際には社会の生産活動を一手に担っており、時には歴史を大きく動かす力も秘めていました。農民の働きがなければ、領主も国家も成立しない――それがこの時代の根本構造であったといえるでしょう。
中世ヨーロッパにおける農奴の暮らし
中世ヨーロッパでは、多くの農民が「農奴(のうど)」と呼ばれる身分に属していました。農奴は、領主の土地に縛られ、その土地を耕し、労働力として仕えていたのです。自分の畑だけでなく、領主の直営地でも働かされ、収穫物の一部を納める義務がありました。時には戦争にも駆り出されることがありました。
農奴は、移動の自由、結婚、職業選択といった基本的な自由を持たず、すべてが領主の許可制でした。しかし、その一方で、農奴は領主からある程度の「保護」を受けることもできました。外敵や飢饉の際には領主の城に避難できるなど、最低限の生活が保証されていたのです。つまり「束縛と保護」がセットになった関係であったといえるでしょう。
封建制とは、国家がすべてを一元的に支配するのではなく、複数の中間的な権力が農民と直接関係を持つ、分権的な社会構造でした。農民はその最下層に位置づけられていましたが、実際には最も重要な役割を果たしていたのです。
日本の農民と封建体制
日本でも、平安時代の荘園制から江戸時代の幕藩体制に至るまで、農民は土地に根を張りながら国家の財政を支えてきました。荘園制では、貴族や寺社が農地を所有し、その土地を耕す農民が年貢を納めていました。鎌倉・室町時代には武士が荘園を支配するようになり、農民は武士階級の管理下に置かれるようになります。
江戸時代になると、「士農工商」という身分制度が導入され、農民は名目上「第二の身分」として尊ばれました。しかし実際には、年貢を納める存在としての役割が重く、武士階級を支える経済的基盤でしかなかったともいえます。幕府は村落制度を整備し、「五人組」などの仕組みで相互監視体制を築き、年貢の徴収を強化しました。
一方で、日本の農村社会は共同体としての自律性も持っており、村人同士で協力し合いながら生活を営んでいました。農民は単なる被支配者ではなく、地域社会の「自立した担い手」としても大きな役割を果たしていたのです。このような農村の強固な基盤が、後の近代化にも大きな影響を与えることになります。
農民反乱と時代の転換
封建社会が常に安定していたわけではありません。重税や飢饉、領主の圧政に耐えかねた農民たちは、たびたび反乱を起こしました。ヨーロッパでは「ジャックリーの乱」(1358年)やドイツ農民戦争(1524年)が代表的ですし、日本でも「百姓一揆」や「打ちこわし」が全国的に多発しました。
これらの反乱は、ただの暴力ではなく、農民が自らの生存権や社会的正義を求めた「政治的行動」であり、近代国家の形成に向けた胎動だったともいえるでしょう。封建制度はこうした内部からの力によって徐々に揺らぎ、「民主主義国家」へと移行していきました。
フランス革命や明治維新のような歴史的大転換の裏側にも、農民の怒りや不満、そして変革への意志が渦巻いていたことは見逃せません。食と土地を掌握する農民こそが、社会の土台を動かす本当の力を持っていたのです。
近代国家と農民の再編成
産業革命を迎えると、都市化と工業化が急速に進行し、農業は社会の主役から少しずつ後景へと退いていきました。しかし、それでも農業は国家にとって不可欠な基盤であり続けました。近代国家は農地改革や土地所有制度の整備、農業教育の推進などを通じて、農民を「近代国家の構成員」として再編成しようとしたのです。
たとえば明治政府は、地租改正を実施し、土地を国家が正確に把握することで徴税制度を近代化しました。また、農民からの徴兵制によって、兵士の供給源としての役割も求められるようになりました。
こうして農民は、村落共同体の一員としてではなく、国家の制度の中で機能する「国民」として再定義されていったのです。
農民は、歴史の片隅に追いやられながらも、常に時代の土台を耕し、支えてきた存在です。封建社会では支配されながらも地域を維持し、近代国家の形成期には大きな変革のエネルギーを生み出しました。彼らはただの沈黙する民衆ではなく、「時代を動かす者たち」であったことを、私たちは忘れてはなりません。
次回に続きます。


