農民芸術概論綱要をめぐって
わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
イマジンファーム・アップルトマトのあるスギです。
冒頭の文章は『注文の多い料理店』の序文で、私が日本語で紡ぎだされた文学表現の中で最も感銘を受けた大好きな文章です。
作者は宮沢賢治、童話作家、詩人、科学者、宗教家、教師、音楽家など多彩な顔を持つ作家ですが、一方、農業を学び実践し、農業とまっすぐ向き合い、農業の未来を作り出そうと奔走した人でした。
今回は宮沢賢治と農業の関わり、とりわけ彼が執筆した『農民芸術概論綱要』を紐解いていこうと思います。
賢治さんの生み出すことばは、神様のことばだね。
生涯(農業との関わり)
宮沢賢治は1896年8月27日、岩手県花巻市にて質屋を営む宮沢政次郎の長男として生まれました。裕福な家庭で跡取りとして期待されていました。
子供の頃から自然に触れ合うことが大好きで、植物や鉱物採集に夢中になっていました。学業にも力を入れ成績優秀で表彰されることもありました。
1914年、病気を患い入院中、看護婦に初恋。この頃、法華経と出会い体が震えるほどの感動を受ける。
1915年盛岡高等農林学校に首席で入学。農業の専門的な知識を学ぶ。
1921年花巻農学校の教諭になる。農業と本格的に向き合う。農民芸術という講義を担当し、この講義の内容がそのまま農民芸術概論綱要になる。
1924年4月『春と修羅』を自費出版、12月『注文の多い料理店』刊行。
1926年花巻農学校を依願退職。独居生活を始め本格的に農業に従事する。農民の生活向上を目指して農業指導を実践するために羅須地人協会を設立。6月『農民芸術概論綱要』を起稿し農民芸術の実践を試みた。肥料設計事務所を開設し、無料で肥料計算の相談に応じる。
1931年『雨ニモマケズ』を書き留める。
1933年9月21日、37歳の若さでこの世を去りました。
短い人生だったけど、たくさんの詩や童話を僕達のために残してくれたんだね。
農民芸術概論綱要
農民芸術概論綱要とは、辛い労働と貧困に喘ぐ農民に芸術をとうして意識の改革、生活の向上を促し、芸術を嗜み、自ら製作していく先に生活の芸術化、農業の芸術化の実現を目指す、賢治が講義用に書いた芸術論です。
この論文は私が農業に関わることになる決定的な動機になり、今も様々なインスピレーションを与えてくれます。
農民芸術概論綱要から私が魂を揺さぶられた文章を何点か紹介します。
序論
自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化するこの方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか
新たな時代は世界が一の意識のなり生物となる方向にある
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である
農民芸術の興隆
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又去るものを必要とせぬ
今やわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
農民芸術の本質
農民芸術とは宇宙感情の 地 人 個性と通ずる具体的なる表現である
そは直感と情緒との内経験を素材としたる無意識或は有意の創造である
そは常に実生活を肯定しこれを一層深化し高くせんとする
そは人生と自然とを不断の芸術写真とし尽くることなき詩歌とし巨大な演劇舞踏として観照享受することを教える
そは人々の精神を交通せしめ その感情を社会化し遂に一切を究竟地にまで導かんとする
農民芸術の(諸)主義
芸術のための芸術は少年期に現はれ青年期後に潜在する
人生のための芸術は青年期にあり成年以後に潜在する
芸術としての人生は老年期中に完成する
四次感覚は静芸術に流動を容る
農民芸術の製作
世界に対する大いなる希願をまず起せ
強く正しく生活せよ 苦難を避けず直進せよ
感受の後に模倣理念化冷く鋭き解析と熱あり力ある綜合と諸作無意識中に潜在するほど美的の深と創造力はかはる
機により興会し胚胎すれば製作心象中にあり
練意了って表現し 定案成れば完成せらる
無意識即から溢れるものでなければ多く無力か詐偽である
なべて悩みをたきぎと燃やし なべて心を心とせよ
風とゆききし 雲からエネルギーをとれ
農民芸術の産者
職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である
創作自ら湧き起り止むなきときは行為は自ずと集中される
そのとき恐らく人々はその生活を保証するだらう
創作止めば彼はふたたび土に起つ
ここには多くの解放された天才がある
個性の異る幾億の天才も併び立つべく斯て地面も天となる
農民芸術の綜合
おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようではないか
まずもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空に散らばろう
しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きている
詩は詩であり 動作は舞踏 音は天楽 四方はかがやく風景画
われらに理解ある観衆があり われらにひとりの恋人がある
巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす
結論
われらに要るものは銀河を包む透明な意思 巨きな力と熱である
われらの前途は輝きながら峻険である
峻険のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる
詩人は苦痛をも享楽する
永久の未完成これ完成である
以上です。賢治の宗教観と科学的教養を軸とし、人、自然、宇宙へと無限に広がる世界観を表現しながら、一方で実際、百姓として過酷な現実を生きている賢治の実生活に根付いた芸術論です。
私はこの論文を読んだのは18歳くらいだと思います、とにかく感動した。書いている内容はすべて理解できてはもちろんいなかっですけれど、文章の一つ一つが身体の全細胞と共振するような、魂が震えるというような、言葉では言い表せないくらいの衝撃がありました。
私の人生の方向性を決定づけた論文です。
求道すでに道、芸術をもてあの灰色の労働を燃やせ、風とゆききし 雲からエネルギーをとれ、永久の未完成これ完成である、胸踊るキーワードがたくさん出てきます。
すべての人々が天才であり芸術家である。自分の人生を磨き上げ芸術まで昇華させる。既成の芸術ではなく新たな宇宙的直観力に満ちた四次元芸術を創り出す。私がこの論文から感じ取り、自分の人生の道標にしているテーマです。
この四次元芸術という言葉が何箇所か出てきますが、賢治が目指し理想とした芸術の形なのかなと思います。
その集大成が『銀河鉄道の夜』なのかなと思います。
皆様も一度全文読んで頂けると嬉しいです。ものの見方が変わり、人生観が変わり、日常生活に新たな風が舞い込んでくるとかと思います。
賢治の百姓としての生活は2年半続き、体調を崩し道半ばで終わってしまいましたけれど、その理想は確実に後世に受け継がれています。
賢治さんの理想がたくさん詰まった文章だね。僕達もその想いを受け継いでいくよ。
宮沢賢治の世界観を語る上で重要なキーワード
法華経
仏教の経典の中の一つです。泥の中から綺麗なハスの花が咲くように、煩悩に囚われ、迷い苦しむ人々の心に救いをもたらすという意味です。
その思想は、自分より他人の救い、あの世よりこの世で仏国土の世界を実現するという教えであり、誰でも皆成仏できるという平和思想に貫かれています。この経典が展開する宇宙的で普遍的な世界観は賢治の作品にも大きな影響を与えています。
賢治の根本思想であり、自分の生き方にも、作品にも多大な影響を受けている。
18歳の時、島地大等著編の「漢和対照妙法蓮華経」を読み、生涯の信仰となる。
24歳の時に「国柱会」に入会し信仰と布教に努める。そこで文芸による法華経の普及を進められ、法華経の世界観を基とした作品を数多く執筆する。
法華経の中でも賢治が最も重視したのは菩薩行道です。修羅の地であるこの世にて、迷い、苦しむ者たちを救い、導き、教化する。現実的な実践を重視する信仰活動である。
自ら辛い労働と貧困に喘ぐ農民になり、農民の生活向上のため献身的に働いたのは菩薩行道の実践のためである。
菩薩行道の思想が最も反映されている作品は、賢治が自分の死の2年前に病床で手帳に書き残した「雨ニモマケズ」です。
賢治の法華経に対する深く純粋無垢な信仰心と、全ての人々を救い幸せに導きたいという切なる願いが感じられます。
科学
賢治が科学を本格的に学んだのは盛岡高等農林学校時代で、化学、土壌学、植物生理学、肥料学など学ぶ。
賢治の自然科学への知的好奇心は旺盛で、他に天文学、地質学、鉱物学など幅広い領域にわたって学んでいました。
最も影響を受けた著書は片山正夫『化学本論』であり、この本で、光の特性、量子論、原子論などにも興味を持つ。賢治の作品に多く出てくる科学用語もこの本から多く引用している。
片山正夫『化学本論』と島地大等著編の「漢和対照妙法蓮華経」は賢治が最も大切にしていた著書で彼の人生と作品に大きな影響を与えている。
山、川、動物、植物、銀河、森羅万象、様々な用語が出てくる賢治の作品の中に、科学的知識は、冷静さ、深淵さを与え、宗教感だけでは曖昧になりがちの作品に論理的説得力を加える。
賢治が身につけた科学的知識が最も役に立ったのは農業である。今までの経験や勘で農業していた農民たちに、科学的根拠に基づいた農業を普及させようとしていた。
土壌診断、肥料設計などの農業化学の知識を農民達に教え、安定した収穫、多収を実現することによって生活の向上を目指した。
自然
自然との対話は賢治にとって日常であり、喜びであり、創作の源だった。
賢治は山登りが大好きで、岩手山は初めて登った中学二年生以来、何度も登ったと言われる。他にも岩手県内の山をたくさん登った。
小さい頃から「石っこ賢さん」と呼ばれる程、岩石や鉱物が好きで、鉱物採集が趣味であった。
星を眺めるのも好きで、天文の本を読み、星座表を持ち歩いていた。
賢治の作品は、自然と触れ合い、対話することによってインスピレーションを得て生まれてきた。自然や宇宙と身体全体で共鳴し、すきとおった風と夜空の星々と交流して、賢治の思考を通して物語が降ろされたように思う。
賢治の紡ぎ出す物語には森羅万象、自然界の様々な生命が登場してきて、個性豊かに動き出す。みんな人間と同じ命で、尊い。命の重さは変わらない。賢治の自然への優しく、温かい眼差しを感じる。
賢治には現代人が失った超感覚、霊感力が備わっていた。別次元の存在が感じられたり、自然や宇宙から様々なインスピレーションを得ていた。
『注文の多い料理店』序文より
「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。ほんとうに、かしわやばしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたがないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。」
音楽
22歳の頃クラシック音楽のレコードを聴いて賢治の音楽好きは始まりました。28歳の頃には仲間と楽団を結成して楽器の練習に励んでおり、30歳の頃、花巻からチェロを担いで東京まで赴いて先生に指導してもらい、他にオルガンも習っていました。
クラシック音楽を中心にジャズや当時流行していた浅草オペラも聴いていました。
若い頃はベートーヴェンやドヴォルザークなどのクラシック音楽が好きで、晩年には地元の音楽に目覚めて作曲をしたりしました。
特にベートーヴェンは一番のお気に入りで、交響曲第五番には大いに刺激を受けて、「おれも是非ともこういうものを書かねばならない。」と言い「春と修羅」を執筆した。
レコード収集が趣味で数十枚ほど持っており、当時としてはかなり多いコレクションです。花巻一の収集家として知られていました。教師時代に稼いだ給料はほとんど注ぎ込んでいたらしいです。
羅須地人協会では、生徒や知人を集めてレコードコンサートを開催し、演奏会の練習をしたりしました。
お気に入りの曲に自分で歌詞をつけて歌を作ってました。、自ら作詞作曲した曲もあります。
賢治の童話の三分の一に歌が入っており、たくさんの作品の中に音楽的知識が散りばめられています。
賢治には独自の音感があり、日常生活の中にも様々な音を感じとり、特に自然と触れ合う中で無数の、色とりどりの音を全身で感じとっていました。
それは現実に聴こえる音だけではなく、異空間から五感を通さず感じる音まで聴こえていたのではないかと推測できます。
賢治の作品に数多く出てくる「オノマトペ」はその音から溢れ出たことば。リズミカルで情感豊か、色彩感覚に溢れてことばに生命が宿っている。
日本人の作家の中でこれほど多彩で想像力豊かなことばを紡ぎ出せる者は他にいません。
岩手山から吹き下ろす風は激しく力強いリズムを叩き、
鳥のさえずりと樹々のせせらぎ、野原いっぱい咲き誇る花々は躍動的で楽しげなメロディーを歌い、
夜空いっぱい満天に輝く星々と遠くから聴こえる野生動物達の鳴き声は、美しく神秘的なハーモニーを創り出す。
自然と全身全霊で共鳴し、語り合うことでそこに歌が生まれ、詩が浮かび、協奏曲が奏でられる。
音楽は賢治にとって最高の友であり、師でもあった。
賢治さんの好奇心は宇宙のように広かったんだね。
まとめ
地球に生きる全ての生命と共生し、農業を生業とし自給自足の生活をしながら、質素に生活する。日々喜びとともに起きて、愛に抱かれて眠る。芸術作品に触れ、自ら創作し、美しい自然の仕草に時を忘れる。農業を芸術化し人生を芸術化する。
これが賢治の目指していた生き方であり、これからを生きる地球人にとって最も必要とされる生き方ではないでしょうか?
苦悩と葛藤の多い賢治の人生でしたけれども、悩みが深くなればなるほど賢治の作品は力強く透明感を増し、彼の想像力は天高く舞い上がり、永遠の生命を宿すのでした。
それでは最後に『注文の多い料理店』序文から
けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。
私のつくるトマトも皆様のすきとおったほんとうのたべもになれれば幸いです。
最後まで読んでくれてありがとう。