「己を磨く道」としてのひとり農業
前回の続きです。
武蔵哲学の五つの実践と、農業の現場

宮本武蔵の思想には、現代を生きる私たちに通じる普遍の教えがいくつもあります。
その中でも、私が農業を通して強く実感しているのが、「無心」「観の目」「拍子」「自然体」「道」という五つの実践です。
これらは、単なる精神論ではなく、実際の農作業の中で息づく“生きるための技法”です。
ここでは、ひとり農家としての日々を重ねながら体で学んだ、武蔵の五つの哲学を綴ります。
無心 ― 執着を離れ、自由に生きる心
「無心」とは、何も考えないことではなく、心が何にもとらわれていない状態を指します。
武蔵にとって、真の戦いとは“相手を倒すこと”ではなく、“自分の心を制すること”でした。
怒りや恐怖、勝ちたいという欲が生じた瞬間、剣は鈍り、判断が曇る。
だからこそ、心を澄ませ、状況の流れに任せる「無心の境地」が必要なのです。
無心の状態では、思考は止まるのではなく、むしろ研ぎ澄まされます。
そこでは“考える”のではなく、“感じて動く”――つまり、身体と心が一体となる瞬間が訪れる。
武蔵はその境地を「空」と呼び、すべての執着から自由になったところにこそ、真の強さが宿ると説きました。
トマトの生育は、思い通りにいかないことの連続です。
天候が崩れ、病気が出て、計画が狂う。
そんなとき、焦りや落胆が心を支配すると、次の判断を誤ります。
無心とは、そうした感情の波に飲まれず、淡々と、目の前の作業に没頭する力。
私は「今日はこの畝を丁寧に整える」「この株をよく観察する」といった小さな一点に心を置きます。
未来を心配するのではなく、今に集中する。
すると、自然と次の答えが見えてくるのです。
観の目 ― 部分を超え、全体を見通す知恵
『五輪書』の中で最も有名な教えのひとつが、「観の目・見の目」です。
武蔵は言います。
「見の目は小さく、観の目は広く。」
「見の目」は、対象を一点で見る目。
「観の目」は、全体を捉え、流れや気配を感じ取る“心の眼”です。
たとえば相手の刀だけを見ると、動きの全体を見失う。
しかし、相手の呼吸、重心、拍子、そして空気の流れまでを観れば、戦わずして勝つことができる。
農業も同じです。
温度や湿度、EC値など、数字で見えるデータは「見の目」。
しかし、それだけでは植物の本当の状態はわかりません。
葉の色、茎の張り、根の匂い、畝の呼吸――
それらを感じ取るのが「観の目」です。
私は毎朝、ハウスに入った瞬間の空気の重さで“今日のトマトの機嫌”を感じ取ります。
計器が示す数字よりも、自分の五感が教えてくれる変化のほうが早く、的確なことがあるのです。
データを信じつつも、感覚を磨く観察力。
これが、武蔵の言う「観の目」であり、自然と共に生きる農業者の勘です。
拍子 ― 人生のリズムをつかむ力
武蔵は戦いの本質を「拍子」に見いだしました。
拍子とは、単なるタイミングではなく、流れの中で生じる生命のリズムです。
剣の勝敗は、わずかな呼吸や間のズレで決まる。
相手が動こうとする“前”に、自分が自然に動いている。
それこそが「先の先を取る」極意です。
人生もまた、拍子で決まります。
焦りすぎれば崩れ、遅れれば機を逃す。
武蔵の哲学は、「拍子を合わせる」のではなく、「拍子を創り出す」生き方を教えています。
つまり、他人や社会のリズムに合わせるのではなく、自分自身のテンポで動く。
農業もまた、リズムの仕事です。
播種、定植、追肥、収穫――それぞれの工程に、最適な“拍子”があります。
それを逃すと、全体の流れが乱れる。
たとえばトマトの摘果や誘引も、早すぎても遅すぎてもダメです。
株の勢いを見ながら、自然のリズムに合わせて動く。
これこそが、農業での「拍子の取り方」です。
私は、武蔵の言葉「敵の拍子を外して我が拍子を得る」を、
「自然の拍子を感じ、自分の作業を調和させること」として心に刻んでいます。
自然体 ― 作為を離れ、あるがままに生きる
武蔵は「構えにとらわれるな」と繰り返し説きました。
構えはあくまで一時の姿であり、そこに固執すれば、柔軟さを失う。
彼は、相手に合わせて変化し続ける「無構え」を理想としました。
それはまさに、自然体の哲学です。
自然体とは、努力を捨てることではありません。
むしろ、努力を極めた者だけが辿り着ける“自由で無理のない構え”です。
武蔵は言いました。
「常に平常心を持ち、いかなる時も己を失うな。」
戦場でも日常でも、姿勢と呼吸を整え、心を安定させる。
それが、すべての行動を支える「基礎の道」なのです。
現代に生きる私たちにとっても、これは「自分らしく生きる」ための最も根本的な心構えといえます。
農業では、「頑張りすぎ」が一番の敵です。
身体も心も、無理を重ねると長く続けられません。
作物も人間も、環境が整えば自然に成長します。
だから、私は「無理に育てる」より「整える」ことを意識します。
土壌環境を整え、水を与え、日差しを導く。
その結果、トマトが自らの力で伸びていく。
この感覚は、まさに武蔵の「自然体」と同じです。
力を入れない強さ、整えることで発揮される本当の力。
これが、持続可能な農業の基本であり、長く生きる智慧だと感じます。
道 ― 剣を超えた、人生の原理
最後に、宮本武蔵哲学の中心にあるのが「道」という言葉です。
武蔵にとって剣は単なる技術ではなく、「生きること」そのものでした。
剣を極めるとは、己を極めること。
そして、己を極めるとは、自然や宇宙の理法に従って生きることです。
『五輪書』の冒頭で武蔵はこう述べています。
「兵法の道を知るものは、万の道に通ず。」
つまり、剣の道を極めた者は、どんな職業、どんな芸術にも通じる。
「道」とは、分野を超えて普遍の法則に到達するための、人生全体の修行なのです。
それは農業であれ、経営であれ、芸術であれ、本質は同じ――「己を磨き、自然や宇宙と調和すること」。
この考えこそ、宮本武蔵が最晩年に辿り着いた“究極の生き方”でした。
私にとっての生涯を通して追求する「道」は、農業です。
トマトを育てることは、ただ生産することではありません。
土と向き合うことは、自分と向き合うこと。
天候を読むことは、人生の流れを読むこと。
そして、一粒のトマトの果実を収穫する喜びは、日々の努力の結晶です。
武蔵は言いました。
「兵法の道を知る者は、万の道に通ず。」
私はそれを、こう置き換えます。
「農の道を知る者は、万の道に通ず。」
土を知り、自然を知り、自分を知る。
その経験は、人生のあらゆる場面に生きてくるのです。
この五つの哲学――無心・観の目・拍子・自然体・道――を、私は毎日の作業の中で少しずつ体得しています。
それは、結果を求めるための技術ではなく、生き方そのものを整えるための稽古。
武蔵が剣で「道」を歩んだように、私はトマト作りで「道」を育んでいます。
剣と芸術と農業

宮本武蔵は、剣の達人であると同時に、書や絵を愛した芸術家でもありました。
彼の筆から生まれた絵には、戦いの緊張と静けさ、命の尊厳と無常の美が同居しています。
「剣も筆も同じ道に通ず」――この言葉の通り、武蔵にとって芸術とは、戦いとは別のものではなく、心を整えるための修行でした。
剣と芸術に共通する「一瞬の集中」
武蔵は『五輪書』の中で、「兵法の道を知るものは、万の道に通ず」と述べています。
剣の極意を極めた者は、絵や彫刻、建築、経営など、どの分野でも同じ理(ことわり)に辿り着くという意味です。
つまり、芸術の道も兵法の道も、根底に流れる原理はひとつ。
それは「心と形の一致」「無駄のない美」「自然との調和」です。
武蔵の絵画には、力強くも静かな筆致が見られます。
特に有名な『枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)』では、一本の老木と小さな鳥を通して、生命の儚さと強さを同時に描き出しています。
無駄を削ぎ落とした筆線の中に、まるで剣の軌跡のような緊張感が宿っています。
それは、斬るための一撃と、描くための一筆が、本質的には同じ「一瞬の集中」から生まれていることを示しています。
農業にもこの「一瞬の集中」があります。
苗を定植するタイミング、水を与える瞬間、剪定の判断。
すべてはわずかな違いで、結果が大きく変わる。
だからこそ、その瞬間に心を込めることが大切なのです。
一本の刀を振るうように、一本のトマトの生育状況を見極める。
そこに芸術と同じ緊張感と静けさがあります。
機能美 ― “使う美しさ”を追い求める
武蔵の芸術観には、華美な装飾や技巧を誇る姿勢は一切ありません。
彼が求めたのは、「用の中にある美」でした。
剣も筆も、道具もすべて“使うためにある”ものであり、その本来の機能が極まったとき、自然に美が生まれる。
それは現代デザインでいう「機能美」にも通じます。
美を目的とするのではなく、目的を極めた先に現れる“必然の美”。
これこそが、武蔵が生涯をかけて追い求めた芸術の形でした。
農業もまた「実用の美学」です。
整った畝、よく管理された草、風通しの良い葉。
それらは見た目の美しさではなく、機能の中に宿る美です。
美しく整った圃場は、作物が快適に育つ環境を示しています。
美と生産は、実は対立せず、同じ方向を向いているのです。
芸術とは、心を映す鏡である
武蔵にとって絵を描くことや書をしたためることは、単なる創作活動ではなく、心を整える「稽古」でした。
刀を振るう時と同じように、筆を持つ時も、心を静め、呼吸を整える。
筆先が迷えば線が乱れ、心が乱れれば刀も鈍る。
そこにあるのは「技」ではなく「心のあり方」の修練です。
武蔵の芸術観は、職業や分野を問わず、私たちが「集中」「誠実」「一貫性」をもって物事に向き合うことの重要性を教えてくれます。
同じように、圃場もまた農家の心を映す鏡です。
疲れて心が曇ると、作業も雑になり、トマトの顔つきもどこか暗くなる。
しかし、心を整え、丁寧に向き合うと、作物は見事に応えてくれます。
農業とは、結局のところ「自分を整えるための芸術」です。
自然と対話し、自分と向き合う時間の中に、真の美が宿るのだと私は感じます。
剣も筆も、「道」を歩むための手段
最終的に、武蔵にとって剣も筆も、目的ではありませんでした。
それらはすべて、「道」を歩むための手段だったのです。
剣によって己を知り、筆によって心を磨く。
戦いと創造の両面から“生きる術”を探求したその姿は、まさに人間の完成を目指す修行者のようです。
彼の人生そのものが一つの芸術作品であり、
その筆致は時代を超えて、私たちに「生きるとは、自分を磨き続けることだ」と語りかけています。
私も日々の農作業の中で、心を整え、手を動かし、自然のリズムと一体になる。
それは、絵を描くように無心でトマト作りをすること。
一つの作業、一つの収穫、そのすべてが「道を極めるための一筆」なのです。
武蔵が筆で心を描いたように、私は農場で命を描いている。
その重なりの中に、「農業もまた芸術である」という真実が静かに浮かび上がります。
武蔵の哲学と現代社会 ― 混迷の時代を生き抜く知恵

現代社会は、まるで見えない戦場のようです。
情報が溢れ、競争が激しく、人の価値さえ数字や評価で測られる時代。
その中で、心の静けさを保つことはますます難しくなっています。
しかし、宮本武蔵の哲学を紐解くと、この時代を生き抜くための確かな指針が見えてきます。
そして、それは農業という営みにも深く通じています。
「勝つこと」より「続けること」
武蔵は数々の戦いに勝利しながら、最終的に「勝つ」ことの虚しさを悟りました。
彼が目指したのは「勝たずして負けない生き方」、すなわち永続する強さです。
農業でも同じです。
今年の収量が多かったとしても、それが永遠に続く保証はありません。
自然は変化し、経済も揺らぎ、人も歳を取ります。
だからこそ、私は「勝ち続ける」よりも「続けられる」ことを重視しています。
無理な拡大をせず、今ある環境の中で最適な循環を作る。
それが、武蔵の言う「地に足のついた兵法」なのです。
「続ける」ためには、心の安定が必要です。
武蔵は『独行道』で「身を惜しまず」「物に執せず」と書きました。
損得や比較に心を奪われず、淡々と「自分の道」を歩むこと。
それこそが、どんな時代にも通じる真の強さです。
「観の目」を養う ― 情報に溺れず、本質を見抜く力
現代は情報過多の時代です。
SNSやニュースには、膨大な情報と他人の意見が流れ続けています。
しかし、武蔵が説いた「観の目」を持てば、その波に呑まれることはありません。
「見の目」は表面を見て判断する目。
「観の目」は全体を俯瞰し、流れや因果を見通す目。
農業においても、目先の数字に惑わされず、季節の移ろいや年間を通した流れを読むことが大切です。
トマトの葉が少し垂れた、その小さな変化に次の予兆を見る――それが観の目。
この力を養うには、毎日の「観察」が必要です。
人も、自然も、社会も、よく見れば法則を持っています。
見えない流れを掴む力こそ、混迷の時代を生き抜く“武蔵的知恵”なのです。
「拍子」をつかむ ― 時代のリズムに合わせる
武蔵は戦いの中で「拍子(リズム)」の重要性を説きました。
拍子とは、ただの速さではなく、流れの中で生まれる「最適の間(ま)」です。
これは農業にも、社会にも共通します。
たとえば、種をまく時期、剪定のタイミング、出荷のタイミング――
どれも“早すぎても遅すぎても”うまくいきません。
自然には自然の拍子があり、そこに自分を合わせていく。
人間関係や仕事も同じで、「押す」「待つ」「流す」の拍子を見極めることが大切です。
流れを読み、勢いに乗り、無理をしない。
それが「拍子を得る」という生き方なのです。
「無心」で動く ― 感情に飲まれない判断
現代は感情があふれる時代です。
戦争、移民問題、金融崩壊、パンデミック・・・。
SNSでは怒りや不安や悲しみが増幅され、人の心がすぐ揺れ動く。
しかし、武蔵の言う「無心」は、そうした感情の渦から離れる智慧です。
混迷する現代社会では、明日さえ見えず、農業では、「思い通りにいかない」ことが当たり前です。
失敗を恐れず、焦らず、淡々と次の手を打つ。
その繰り返しの中で、感情をコントロールする力が育ちます。
無心とは冷たさではなく、どんな状況でも心を動じさせない静かな強さなのです。
「道」を生きる ― 農業は現代の武士道である
宮本武蔵にとって、「剣の道」とは“生き方そのもの”でした。
私にとって、「農業の道」も同じです。
それは、効率や利益にとらわれない、生きるための修行。
種をまき、育て、収穫し、また土に返す――
この繰り返しの中に、「生と死」「陰と陽」「因と果」がすべて詰まっています。
農業はまさに、「自然と宇宙の理」を学ぶ“現代の兵法”です。
武蔵は「兵法の道を知る者は、万の道に通ず」と語りました。
私もまた、こう信じています。
「農の道を知る者は、万の道に通ず。」
土を知り、心を知り、自然を知る。
その経験は、人生のすべてに通じる普遍の力を育ててくれます。
農業を通して「道」を極める ― 勝ち負けを超えた生き方

宮本武蔵が生涯をかけて追い求めた「道」は、勝つための剣術ではなく、生きるための哲学でした。
彼にとって、剣を振るうことは相手を倒すためではなく、己を磨くための行為。
勝ち負けを超えた「心の自由」を手に入れることこそ、真の目的だったのです。
私もまた、農業という「道」の上で、日々その言葉を思い出します。
天候や環境、経済や社会の変化――
誰もコントロールできない要素の中で、自分にできることを見極め、静かに一歩を進める。
それはまるで、戦国の剣豪が目の前の一太刀に心を込めるような時間です。
勝ち負けではなく、調和を目指す「農の兵法」
武蔵が最晩年に到達したのは、「敵も味方も超えた調和の境地」でした。
それは、自然の理に逆らわず、宇宙と一体になる生き方。
農業もまさに同じです。
天と地、風と水、生と死――それらすべてが繋がり、ひとつの循環を描く。
私たち農家は、その循環の中に生かされています。
自然と争わず、自然に教えを受け、そこに調和を見出す。
それが「農の兵法」であり、勝ち負けを超えた本物の知恵なのです。
継続こそ「道」になる
武蔵は「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」と語りました。
千日とは約三年、万日は三十年。
道を極めるには、長い時間が必要です。
私も十年以上トマトを育ててきましたが、ようやく少しずつ「トマトの声」が聞こえるようになってきた気がします。
最初の頃は、失敗の連続でした。
でも、その失敗が一つひとつ、私にとっての「稽古」になっていたのです。
武蔵が剣を磨いたように、私は「トマト作り」を通して自分を磨いてきた。
それが「農業の道」であり、人生の修行なのです。
自然とともに生きる「空の境地」
武蔵の最終巻『空之巻』にある「空」とは、無ではなく、偏らぬ心です。
自然の流れを受け入れ、喜びも悲しみもそのままに受け止める。
それが「空」の生き方です。
晴れの日も、嵐の日も、作物はその中で生きています。
人もまた同じです。
良い日も悪い日も、結果に右往左往せず、淡々と歩みを続ける。
その姿勢の中に、武蔵の言う「道」が息づいているのだと思います。
私は、収穫したトマトを手に取るたびに思います。
この一粒の中に、太陽、水、風、そして私の想い――
すべてが重なり、命として形を成している。
それは、勝利でも成功でもなく、宇宙のエネルギーの結晶です。
ひとり農家としての自分が、農業を通して得た学び
ひとり農家として生きる中で感じるのは、農業は、単に作物を生産し、利益を得るための仕事ではありません。それは人生をかけて磨き続ける「道」であり、人間としての成長を促す修行のような営みです。
毎日の栽培管理や土作り、病害対策など、そのすべてが試行錯誤の連続であり、終わりのない探求です。どれだけ経験を積んでも「これで完璧だ」と思える瞬間は訪れません。それでもなお、より良いものを求めて工夫し続けることにこそ、農業の本質があるのだと思います。
自然と向き合うことは、自分自身と向き合うことでもあります。作物の成長は、まるで自分の心の在り方を映し出す鏡のようです。焦って過剰に手を入れると、かえって悪い結果になることもあります。逆に、必要な手間を惜しめば、期待した成果は得られません。作物が教えてくれるのは、「適切な時に、適切な手を打つ」ことの大切さです。この気づきは、農業だけでなく人生全般にも通じています。
武蔵の「万事において道を知る」という言葉のように、農業もまた、日々の実践を通じて「道」を学ぶ行為です。種をまき、育て、収穫し、また次の季節へ備える——この繰り返しの中で、自分自身を磨き続けることこそが、「農業を極める」ということなのだと感じています。
宮本武蔵の哲学と農業の実践が交わるところ
宮本武蔵の哲学と農業の実践には、多くの共通点があります。武蔵は「型にとらわれない柔軟な発想」を重んじ、常に最適な戦い方を模索しました。同じように、農業も固定観念に縛られず、状況に応じて最善の方法を選ぶことが求められます。天候や気温、病害の発生など、自然環境は常に変化します。その中で最も適した方法を見つける力が、農業者にとっての「剣の極意」とも言えるのです。
さらに、武蔵が「己の腕一本で生きる」ことを貫いたように、農業もまた、自らの技術と知恵で未来を切り拓く世界です。どんなに良い設備や土地があっても、それを生かすのは人の技術と感性です。だからこそ、日々の鍛錬が不可欠であり、その積み重ねが「農業の道を極める」ことにつながっていくのだと思います。
農業とは人生をかけて磨く「道」である
宮本武蔵が剣の修行を通して己を極めたように、私も農業を通して、自分という存在を高めていきたいと考えています。
作物は、自分の姿勢や心をそのまま映します。丁寧に向き合えば、その努力に応えてくれますが、怠けたり、焦ったりすれば、結果もそれに見合ったものになります。自然は決して嘘をつかない教師です。この誠実な循環の中で生きることが、農業の尊さであり、人間としての原点を思い出させてくれるのです。
また、農業は「終わりのない道」です。一度成功した方法が翌年も通用するとは限りません。気候や市場の変化、新たな課題が次々に現れます。そのたびに学び、工夫し、挑戦を重ねる——この絶え間ない成長こそが、農業という「道」の魅力なのです。
武蔵のように「独立独行」の精神を持ち、自分の信念に従って歩むこと。試行錯誤を恐れず、技を磨き続けること。その生き方こそが、農業の本質であり、「道を極める」ということなのだと感じます。私はこれからも、農業の道を歩み続けます。そしていつか、「自分の道を生き抜いた」と胸を張って言えるような人生を送りたいと思います。


